【innocence】(イノセンス)
―――映像でも人工でもない雪を見せたい。
そう、ブルーが口にしたのはつい昨日のことだった。
こういうことは面倒臭がらずに根回しをするブルーは、既に子供たちを味方につけており、お行儀よく「お願いします」と頭を下げる子供たちを前に即却下は出来なかった。
とは言え、熟考しても却下など出来るはずもない。先導しているのはブルーなのだ。
意見を交わす必要もない。
エラとブラウは船を降ろすのに適当な場所を探し始め、ゼルも降下準備を命じる。
子供たちはヒルマンを誘って外に出る準備をすると言ってブリッジを出て行った。
残されたハーレイは……いやブリッジなのだからそこから出てゆく訳には行かないのだが、子供たちの後ろ姿を見やるブルーの横顔を見つめた。
―――暗い鉛の海に少しずつ沈んでゆくような感覚。
ブルーは自分の精神状態をそう表現した。
仲間が増え、きちんとした組織作りが必要になり、公の場では互いを役職で呼ぶようになっていた。
ハーレイではなくキャプテンと、ゼルではなく機関長と。
ブルーもまたソルジャーと呼ばれることにも、尊さに儚さを溶かし込んだような淡い藤色のマントに身を包むことにも違和感がなくなってかなりの年月が経過していた。
「キャプテン。明日は非番だったろう?」
「そうですが、まさか一緒に下りるようにと言うのではないでしょうね」
「勘が良い」
柔らかに浮かべた笑みに、ハーレイさえ見とれる。
「あなたが下りられるなら、私はここに残らなくてはなりません」
「万一の時は僕が船を守る」
「しかし」
「僕が行かなければならなくなった時、彼女を任せられるのはお前だけだ。ハーレイ」
一言一言、確実に相手の耳に入るように発音したブルーに、ハーレイは反論しかけた口を閉じた。
「………分かりました」
「ありがとう」
とん、とハーレイの肩を叩いてブルーは踵を返す。
マントが緩やかに翻り、空間に波を起こして、消えた。
「大目に見てやんなよ、キャプテン」
ブラウの言葉にハーレイは苦笑いを浮かべてみせる。
長老と呼ばれるようになったヒルマン、ゼル、エラはブラウの意見に同意するだろう。
ブルーの痛みさえ伴う苦悩を彼らだけが知っている。
何も何者もブルーの手を掴み引き上げることは出来ず、ブルー自身も何の手立ても見つけられなかった。
―――ゆっくり死んでいくようだ。
そうブルーが口にした時、ハーレイは自分の心臓が凍り付いたのを覚えている。
だから、だから大目にみようというブラウの言葉を飲み込むことも出来る。
「わしは残る。寒いのは嫌いじゃからな」
だから皆で行けとゼルは思念で告げた。
翌日。
空と地の色は同じだった。
いや少しだけ色合いが違う。
空は薄く灰色がかっているが、地は目に痛いほどの白が見渡す限り広がっていた。
子供たちの歓声があがる。
誰も歩いていない雪の中を歩き、転んでは冷たさを肌に感じる。
「本当の雪の方が冷たい」
船内の人工雪しか知らない子供がそう言うと、
「本当の雪の方が白い」
「本当の雪の方が美味しい!」
「えっ?」
見ればその子の口には、つい先日彼らのところにやってきたサンタクロースのような白い髭が生えていた。
「食べた!」
「私も食べる!」
手でそっとすくって口にする子もいれば、這い蹲って食べる子供もいる。
「そんなことしてると、お腹が痛くなるよ」
ブラウが言うと、
「痛くなってもいいもん。美味しいもん」
「雪に味なんてないだろ?」
「あるよ」
「うん、ある。食べてみて」
少し前にこの船にやってきた成人検査前に保護された少女が、手に雪をいっぱい乗せてブラウのところにやってきた。
「ん〜…」
「食べてみて」
思い切ってブラウが口にすると。
「冷たい。どうせならシロップが欲しいね」
「ブラウにはシロップよりアルコールじゃないのか?」
後部ハッチからブルーが微笑しながら下りてきた。
「ソルジャー!」
子供たちが一斉にブルーに集まってゆく。
誰に着せられたのか、いつもの服ではなく、濃いグレイのコートに真っ白なマフラーをしている。
普段と違う服装に子供たちだけでなくブラウも驚いたが、自分たちと同じような格好のブルーに子供たちはいつもより親しくに声をかける。
「今日は一緒に遊べるの?」
「昔、雪合戦したって教授に聞いたよ」
「ねえ遊ぼう」
強請る子供たちの頭を撫でながら「後で遊ぼう」と言っていると、遅れてハーレイが少女と言うには少し大きい女の子を抱いて船から下りてきた。
「あ、フィシス様だ」
子供たちが駆け寄る。
そっとフィシスをその場に降ろす。
「みんな、早いのね」
「フィシス様ゆっくりすぎだよ」
「コートが上手く着られなくて……」
そう言ったフィシスに歩み寄ったブルーはコートの襟元をきちんと合わせ、冷気が入り込まないようにする。
「ありがとう」
その様子を見ていたハーレイは安堵に似た息を吐き出し、
「それじゃ、鬼ごっこするか!」
言い放つと、子供たちを追いかけはじめた。
「キャプテンが鬼だ〜!」
子供たちが走って逃げる。
「キャプテンだけじゃないよ。あたしも鬼だ!」
ブラウもエラも、そしてヒルマンも子供たちを追いかける。
捕まった子供は船の近くの木の下に立たされ、
「雪ウサギ50個作りな!」
と、ブラウに命令された。
その様子を見やりながらフィシスの手を取り、少し離れた所に移動する。
子供たちの歓声が遠くに聞こえてくる場所まで来るとブルーを呼び止めた。
「早く、雪に触れてみたい」
「そうだね」
雪を被った大きな石を見つけるとブルーはそこに腰を下ろし、自分の前にフィシスを座らせた。
フィシスは赤い手袋を取って雪の上に掌を当てる。
「冷たい」
その感情がブルーに流れてくる。
震えるような喜びに包まれる。
混じりけのない無垢な感情。
フィシスの目が見えないことはハンデになり得るが、人として憬れ崇拝しうる存在になれる。
悪しきものを見ず、悪しきものに近寄らず、ただ生まれたそのままに生きてゆけるのだから。
「雪ウサギって?」
「ああ」
雪をすくい上げて型作っていると、その手を指をフィシスの手が包む。
どんな風に作っているのか、きっと知りたいのだろう。
雪をフィシスの手に移し、彼女の手でウサギの形を作る。
手品のように現れた葉と赤い実を刺し、
「これが耳、これが目だ」
「小さくて可愛いウサギね。お船に連れて行ってもいい?」
「溶けてしまうよ。さあ、冷えてしまうから」
促して手袋をさせる。
「これ、持っていて」
手の上のウサギをブルーに渡すと、フィシスは雪をすくって形作る。
真似て雪ウサギを作っているのだと分かると、ブルーは葉と実を用意した。
先程より一回り大きなウサギを作ると、それもブルーに持たせてもう一つ作る。
今度はフィシスの手よりも大きなウサギだった。
「これも持っててね」
「フィシス。僕の手は二つしかない」
「あら…」
仕方なくブルーの足元にそっと置き、また一つ作り始める。
また一つ、また一つ。
ウサギの数は瞬く間に10を超えた。
「最初にブルーが作ったのが私。最初に私が作ったのがブルー。それで次がキャプテンで、次が……」
「フィシス。もしかして全員のウサギを作るつもりか?」
「たくさんいると楽しいもの」
「全員で何人いるか知っているのか?」
「40人くらい?」
ああ、とブルーは声をあげた。
確かにフィシスが船で出会ったのはそれくらいの仲間だけだ。
「船にはもっと沢山の人がいる。けれどフィシスが知っている人だけ作るならいい」
「それでは不公平よ? 全員作る。何人いるの? お名前教えて」
「全員の名前を教えてもいいが、今夜は夕食もベッドに入るのも無理だろう。もしかしたら明日の朝食も食べ損ねるかもしれない」
「急がなくちゃなのね」
どうも止める気はないらしいフィシスに、ブルーは小さな声をあげて笑い出した。
「ブルー?」
「お腹が空いたら真っ白い雪を食べよう。真っ白いベッドの上で眠って、美しい夢を見よう」
「朝ご飯も雪ね」
言ったフィシスにブルーは微笑した。
が、次の瞬間、視線がフィシスから天へと向かう。
《ハーレイ!》
鋭い思念で呼ぶ。
鬼ごっこから雪合戦に転じたらしく、ハーレイは全身の雪を払いながら駆けてきた。
《しばらく頼む》
言うなりブルーは軽い跳躍をして天に駆け上っていった。
「ねえキャプテン、ブルーは何処に?」
「おられますよ、そら、あの高みに!」
フィシスのサイオンがどこまで視力を補っているのかハーレイには、いやブルー以外には誰も知らない。
けれどフィシスはハーレイの視線が指し示した方を向いていた。
「よく、見えない」
両手を差し伸ばすフィシスを抱き上げる。
「もっと、もっと高く」
本当に小さな子供のようにせがむフィシスに「つかまっていて下さい」と言ってから器用に肩の上に乗せた。
「いかがですか?」
「向こうの方……」
確かにそちらの方にブルーの存在を感じる。
「大丈夫みたい」
「―――? ソルジャーと思念波でお話を?」
フィシスを肩から下ろしながら尋ねると、
「ううん。イヤな気配がなくなったみたいだから」
「そう……ですか」
特別な力があるとブルーは言っていたが、それがこれなのだろうか?とハーレイは思う。
フィシスについて、実のところほとんど何も知らされていないのだ。
実年齢は15歳だが、ショックで記憶が5〜6歳まで戻っているということ以外は。
「ねえ、これキャプテンなの」
肩から下りたフィシスは、楽しげな笑みを浮かべながら大きなウサギを指さす。
「それでこれがブルーで、これが私。こっちがブラウさんで、これがエラさんで、それからヒルマンさんとゼルさんと……。キャプテンもお船に乗っている人のお名前、全員知っている?」
「ええ」
「じゃあ教えて。一人ずつね」
「全員分の雪ウサギを作るつもりですか?」
「あら」
フィシスは手を口に当て、
「ブルーと同じ事を言うのね」
「……誰でも同じ事を言うと思いますが」
「じゃあ続きも同じこと言うわよね」
「………えと…ソルジャーは何と?」
「お夕食は雪で、ベッドも雪で、朝ご飯も雪なのよ」
一体何のことだと驚きすぎて、ハーレイは反応出来ない。
と、フィシスは明るい笑顔を見せて走り始めた。
(見えないはずなのに……。やはりサイオンが……)
それにしては思わず手を差し出したくなるような危うい走りだった。
「ブルー!」
灰色の雲を割るような声が響く。
雪合戦をしていた子供たちも、雪だるまを作っていた子供たちも、皆、声の方を見る。
真綿のような帽子を落とし両手を天に差し伸べれば、その先の雲間からブルーが姿を現した。
雲間から僅かに差し込む陽の光。
固唾を呑んで見守る視線の先で、まっすぐフィシスの元に舞い降りたブルーは、広げられたフィシスの両手にゆっくり抱き止められた。
|